開発の再開発 vol.1 平山昌尚|ニース Redevelopment of Development vol. 1 Masanao Hirayama: NICE
gallery αM
2023/05/20(土) - 07/15(土)
ニース
平山昌尚
「制作はまず、作品にある程度似た習作によって自分の気持ちを豊かにすることから始まり、そこから作品の要素が決まってくる。その習作が、画家の無意識を解放させる。ある時からそれはもはや私ではなく、一つの啓示となる。あとは私はそれに打ち込むのみである」
アンリ・マティス(『アンリ・マティスが手がけたヴァンスのドミニコ派ロザリオ礼拝堂』、2016年、39頁より)
人生の半分は過ぎたと思う私は、ふと作家の晩年について知りたくなり、興味のあったアンリ・マティスのニース時代の足跡を昨年辿りました。彼は「野獣派」から南仏の気候で穏やかな作風へと変わったようです。マティスの言葉を「経典」と解釈してみると、作品は写経に見えなくもない。そんな気がしてきました。
キワと中心のパラドックス
石川卓磨(美術家・美術批評)
平山昌尚は、テーブルの上から落ちるか落ちないかのギリギリの場所にモノを置くことに固執している——文字どおり、そのような状況を撮影した写真作品を作っている。その時のモノには「落ちる/落ちない」の状態が重なっているが、平山の作品全体も異なる二つの領域の重なりを意識させるキワに存在している。平山の作品は、子供が描いたかのような純粋な「お絵描き」なのか/読解を誘うコンセプチュアル・アートなのか、イラストなのか/絵画なのか、難解なのか/おふざけなのか。それらはアヒルとウサギのだまし絵のようで、観者の関心や理解によって作品の意味や文脈が変わる。美術やデザインのキワに立ち、造形的ボキャブラリーやパラドックスを駆使して、ひょうひょうとした謎めくユーモアを生み出している。
ただし、彼はキワモノの作家ではない。なぜなら平山の作品にはケレン味がなく、描くこと・作ることに対する本質的な問いを投げかけるからだ。最小限のツールとプロセスで組み立てられる図像、象形文字を想起させる絵画と言語の関係性、色彩や線の大胆な単純化は、観者に「欠如」を意識させ、制作やイメージの根本に立ち返らせる。つまり、キワに立ちながら、そこが中心=本質にもなる、というパラドックスをここでも読み取ることが可能である。
そう考えていた私でも、彼がモダニズム絵画を代表する画家アンリ・マティスを参照すると知った時は驚いた。だがこれは美術史に対するジェスチャーではなく、芸術家の生に対する個別的な関心のようである。平山は、マティスがパリを離れ、地中海に面するニース(フランスのキワに位置する)へ移住したことに注目した。これまで平山は、作家の人生と切り離された抽象的な場所で、クールでユーモラスな作品を展開させてきたといえる。だが、今回の平山には、人生と作品、あるいは現実の地理的なキワが中心的なテーマとして提示されている。ここに、開発とは何かを再開発する思考実験が認められるかもしれない。
▊平山昌尚 ひらやま・まさなお▊
1976年兵庫県生まれ。絵画、パフォーマンスなど。主な個展に「町の絵」clinic(東京、2022)、「NFT」NADiff Window Gallery(東京、2022)、「1~4」VOILLD(東京、2020)、「カード」TALION GALLERY(東京、2018)、「Book Show」Nieves(チューリヒ、2017)/ユトレヒト(東京、2017)など。主なグループ展に「平山昌尚x五月女哲平」OBG eu.(兵庫、2022)、「101 to 101」nidi gallery(東京、2021)、「楽観のテクニック」BnA Alter Museum(京都、2020)、「思考するドローイング」札幌大通地下ギャラリー500m美術館(北海道、2019)、「#12 Post-Formalist Painting」statements(東京、2017)、「Sylvanian Families Biennale 2017」XYZ collective(東京、2017)など。
平山昌尚
「制作はまず、作品にある程度似た習作によって自分の気持ちを豊かにすることから始まり、そこから作品の要素が決まってくる。その習作が、画家の無意識を解放させる。ある時からそれはもはや私ではなく、一つの啓示となる。あとは私はそれに打ち込むのみである」
アンリ・マティス(『アンリ・マティスが手がけたヴァンスのドミニコ派ロザリオ礼拝堂』、2016年、39頁より)
人生の半分は過ぎたと思う私は、ふと作家の晩年について知りたくなり、興味のあったアンリ・マティスのニース時代の足跡を昨年辿りました。彼は「野獣派」から南仏の気候で穏やかな作風へと変わったようです。マティスの言葉を「経典」と解釈してみると、作品は写経に見えなくもない。そんな気がしてきました。
キワと中心のパラドックス
石川卓磨(美術家・美術批評)
平山昌尚は、テーブルの上から落ちるか落ちないかのギリギリの場所にモノを置くことに固執している——文字どおり、そのような状況を撮影した写真作品を作っている。その時のモノには「落ちる/落ちない」の状態が重なっているが、平山の作品全体も異なる二つの領域の重なりを意識させるキワに存在している。平山の作品は、子供が描いたかのような純粋な「お絵描き」なのか/読解を誘うコンセプチュアル・アートなのか、イラストなのか/絵画なのか、難解なのか/おふざけなのか。それらはアヒルとウサギのだまし絵のようで、観者の関心や理解によって作品の意味や文脈が変わる。美術やデザインのキワに立ち、造形的ボキャブラリーやパラドックスを駆使して、ひょうひょうとした謎めくユーモアを生み出している。
ただし、彼はキワモノの作家ではない。なぜなら平山の作品にはケレン味がなく、描くこと・作ることに対する本質的な問いを投げかけるからだ。最小限のツールとプロセスで組み立てられる図像、象形文字を想起させる絵画と言語の関係性、色彩や線の大胆な単純化は、観者に「欠如」を意識させ、制作やイメージの根本に立ち返らせる。つまり、キワに立ちながら、そこが中心=本質にもなる、というパラドックスをここでも読み取ることが可能である。
そう考えていた私でも、彼がモダニズム絵画を代表する画家アンリ・マティスを参照すると知った時は驚いた。だがこれは美術史に対するジェスチャーではなく、芸術家の生に対する個別的な関心のようである。平山は、マティスがパリを離れ、地中海に面するニース(フランスのキワに位置する)へ移住したことに注目した。これまで平山は、作家の人生と切り離された抽象的な場所で、クールでユーモラスな作品を展開させてきたといえる。だが、今回の平山には、人生と作品、あるいは現実の地理的なキワが中心的なテーマとして提示されている。ここに、開発とは何かを再開発する思考実験が認められるかもしれない。
▊平山昌尚 ひらやま・まさなお▊
1976年兵庫県生まれ。絵画、パフォーマンスなど。主な個展に「町の絵」clinic(東京、2022)、「NFT」NADiff Window Gallery(東京、2022)、「1~4」VOILLD(東京、2020)、「カード」TALION GALLERY(東京、2018)、「Book Show」Nieves(チューリヒ、2017)/ユトレヒト(東京、2017)など。主なグループ展に「平山昌尚x五月女哲平」OBG eu.(兵庫、2022)、「101 to 101」nidi gallery(東京、2021)、「楽観のテクニック」BnA Alter Museum(京都、2020)、「思考するドローイング」札幌大通地下ギャラリー500m美術館(北海道、2019)、「#12 Post-Formalist Painting」statements(東京、2017)、「Sylvanian Families Biennale 2017」XYZ collective(東京、2017)など。
作家・出演者 | 平山昌尚 |
会場 | gallery αM (ギャラリー アルファエム) |
住所 | 162-0843 東京都新宿区市谷田町1-4 武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパス 2F |
アクセス | 市ヶ谷駅(JR中央線, 総武線) 徒歩3分 市ヶ谷駅(東京メトロ有楽町線, 南北線, 都営新宿線)4番出口 徒歩3分 |
会期 | 2023/05/20(土) - 07/15(土) |
時間 | 12:30-19:00 |
休み | 日・月・祝日 |
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