奈良を中心に各地の仏像を撮った写真家小川晴暘(おがわ せいよう 1894-1960)。彼が創立した仏像撮影専門の写真館「飛鳥園」は2022年に創立100年を迎えました。兵庫県姫路市に生まれた小川晴暘は、画家を志して上京しますが、奈良で仏像などの文化遺産に感銘を受けたのを機に、写真に傾注するようになります。1922(大正11)年、美術史家・書家・歌人として知られる會津八一(あいづ やいち)の勧めで奈良に「飛鳥園」を創業し、奈良の仏像や寺院を中心に文化財・文化遺産の撮影に精力を傾けました。撮影だけでなく東洋美術の研究にも熱中し、奈良に居を移した志賀直哉(しが なおや)や京都大学総長も務めた濱田青陵(はまだ せいりょう)をはじめ、文化人・知識人との交流も深めました。
さらに日本のみならず、中国の雲岡石窟(うんこうせっくつ)、韓国の石窟庵(せっくつあん)・仏国寺(ぶっこくじ)、インドネシアのボロブドゥール遺跡、カンボジアのアンコール・ワットなど、アジアの文化遺産の調査・撮影も積極的に行いました。小川晴暘の写真は、常識を覆す大胆な発想と画才にも恵まれたことでも分かる、美への強いこだわりと感性によって、仏像を主題に神秘的な写真空間を生み出すことに成功し、文化財の記録・資料という枠を超えて、仏像写真を芸術の域にまで昇華させた画期的なものでした。
小川晴暘は1960(昭和35)年に逝去しますが、写真館飛鳥園の活動は小川光三、小川光太郎へと引き継がれ、その活動は現在も奈良の地で続いています。 本展は、小川晴暘・光三親子の写真作品を中心に、文化財保護活動を支えると同時に仏像写真を芸術の域に高めた飛鳥園の活動を振り返ります。
章構成
1章 小川晴暘と飛鳥園
奈良国立博物館の北側にある東西の道は、日中であれば東大寺や春日大社を目指す人と車でにぎわうと同時に、鹿も人に混じって闊歩するところです。この道を挟んで博物館と向かい合う位置にあるのが、仏像など文化財の撮影を専門とする写真館・飛鳥園です。飛鳥園は1922(大正11)年に小川晴暘(本名 小川晴二)が創業し、100年余りの歴史を持ちます。兵庫県姫路市に生まれた小川晴暘は、少年時代から写真に親しむ一方、画家を志して上京し、明治天皇を撮影した丸木利陽(まるき りよう)の写真館で働きながら洋画を学びました。しかし、奈良の仏像や文化遺産に心を打たれ、1918(大正7)年、大阪朝日新聞社写真部への入社を機に奈良を拠点としました。その後、歌人・書家・美術史家として知られる會津八一との邂逅が転機となり、新聞社を辞して奈良に飛鳥園を開き、仏像や文化財の撮影に専念しました。
2章 小川晴暘とアジアの仏教美術
1921(大正10)年、奈良の仏教美術に魅せられた會津八一が偶然、小川晴暘が撮った石仏の写真を目にしたことから交流が始まりました。會津八一の勧めで独立、飛鳥園開業後は、京都大学総長も務めた考古学者・濱田青陵(濱田耕作)や建築史家・天沼俊一、美術史家・源豊宗(みなもと とよむね)と交流し、1924(大正13)年には古美術研究専門の季刊誌『仏教美術』を創刊しました。同年、奈良美術研究会(前年に會津八一が設立)編集・小川晴暘撮影による『室生寺大観』も刊行され、その活動は活発化していきます。交友範囲は志賀直哉や武者小路実篤といった文学者にも広がる一方、1926(大正15)年、天沼俊一とともに当時日本の統治下にあった朝鮮半島へ渡り、慶尚北道慶州の仏国寺と石窟庵の撮影を行いました。1939(昭和14)年以降も、現在はユネスコ世界遺産となっている中国山西省大同の雲岡石窟への撮影旅行を敢行したり、戦火が激しくなる中、1943(昭和18)年と翌年の二度にわたり海軍報道班員として東南アジアへ赴き、インドネシアのボロブドゥール遺跡やカンボジアのアンコール・ワットなどの記録写真も残しています。
3章 小川晴暘から小川光三へ
小川光三(1928-2016)は晴暘の三男として奈良市に生まれました。すぐ上の兄・光暘(1926-95)は同志社大学教授を務めた美術史家です。光三は父と同じく当初は画家を志し、1947(昭和22)年、大阪市立美術館美術研究所で洋画と日本画を学んでいますが、翌年に飛鳥園の経営と撮影を引き継ぎました。そして文化財保護法が施行された1950(昭和25)年から5年間にわたり、文化庁の前身にあたる文化財保護委員会の委嘱で全国各地の仏像を撮影しています。
写真家としての代表作に、毎日新聞社から10年をかけて刊行した『魅惑の仏像』全28巻(1986-96)があり、これは一巻丸ごとを一体の仏像にあて、視点や光の変化で仏像の多彩な表情を切り取るという意欲作でした。父が明暗の諧調のみで表現するモノクロームで撮影していたのに対し、カラー写真ならではの色と光による表現に特色があります。とくに堂内での撮影では鏡を使って自然光を操りながら撮影することを得意としました。
4章 飛鳥園一〇〇年の旅 志を継いで
飛鳥園はその長い歩みの中で小川晴暘・光三親子以外にも何人かの文化財写真家を輩出しています。晴暘に師事した写真家には、奈良の出身で後に長く東京国立博物館に勤務し、同館写真室長も務めた米田太三郎などがいます。写真家ではありませんが、平林たい子文学賞や読売文学賞を受賞した小説家の島村利正は、昭和初期に数年間飛鳥園で働いたことがあり、後に晴暘の生涯を小説化した『奈良飛鳥園』(1980)を上梓しています。小川光三は1968(昭和43)年に飛鳥園を株式会社化しましたが、同年入社して光三に師事したのが金井杜道(かない もりお)でした。金井は1972(昭和47)年に京都国立博物館へ移り、同館を定年退官後もフリーランスの写真家として活躍しています。飛鳥園の経営は現在、晴暘の孫で光三の甥である小川光太郎が担っており、所属写真家として撮影を担当しているのが、若松保広(1956-)です。鹿児島県出身の若松は、1978(昭和53)年に九州産業大学芸術学部写真学科を卒業して飛鳥園に入社、光三に師事し、現在も飛鳥園で活躍しています。
さらに日本のみならず、中国の雲岡石窟(うんこうせっくつ)、韓国の石窟庵(せっくつあん)・仏国寺(ぶっこくじ)、インドネシアのボロブドゥール遺跡、カンボジアのアンコール・ワットなど、アジアの文化遺産の調査・撮影も積極的に行いました。小川晴暘の写真は、常識を覆す大胆な発想と画才にも恵まれたことでも分かる、美への強いこだわりと感性によって、仏像を主題に神秘的な写真空間を生み出すことに成功し、文化財の記録・資料という枠を超えて、仏像写真を芸術の域にまで昇華させた画期的なものでした。
小川晴暘は1960(昭和35)年に逝去しますが、写真館飛鳥園の活動は小川光三、小川光太郎へと引き継がれ、その活動は現在も奈良の地で続いています。 本展は、小川晴暘・光三親子の写真作品を中心に、文化財保護活動を支えると同時に仏像写真を芸術の域に高めた飛鳥園の活動を振り返ります。
章構成
1章 小川晴暘と飛鳥園
奈良国立博物館の北側にある東西の道は、日中であれば東大寺や春日大社を目指す人と車でにぎわうと同時に、鹿も人に混じって闊歩するところです。この道を挟んで博物館と向かい合う位置にあるのが、仏像など文化財の撮影を専門とする写真館・飛鳥園です。飛鳥園は1922(大正11)年に小川晴暘(本名 小川晴二)が創業し、100年余りの歴史を持ちます。兵庫県姫路市に生まれた小川晴暘は、少年時代から写真に親しむ一方、画家を志して上京し、明治天皇を撮影した丸木利陽(まるき りよう)の写真館で働きながら洋画を学びました。しかし、奈良の仏像や文化遺産に心を打たれ、1918(大正7)年、大阪朝日新聞社写真部への入社を機に奈良を拠点としました。その後、歌人・書家・美術史家として知られる會津八一との邂逅が転機となり、新聞社を辞して奈良に飛鳥園を開き、仏像や文化財の撮影に専念しました。
2章 小川晴暘とアジアの仏教美術
1921(大正10)年、奈良の仏教美術に魅せられた會津八一が偶然、小川晴暘が撮った石仏の写真を目にしたことから交流が始まりました。會津八一の勧めで独立、飛鳥園開業後は、京都大学総長も務めた考古学者・濱田青陵(濱田耕作)や建築史家・天沼俊一、美術史家・源豊宗(みなもと とよむね)と交流し、1924(大正13)年には古美術研究専門の季刊誌『仏教美術』を創刊しました。同年、奈良美術研究会(前年に會津八一が設立)編集・小川晴暘撮影による『室生寺大観』も刊行され、その活動は活発化していきます。交友範囲は志賀直哉や武者小路実篤といった文学者にも広がる一方、1926(大正15)年、天沼俊一とともに当時日本の統治下にあった朝鮮半島へ渡り、慶尚北道慶州の仏国寺と石窟庵の撮影を行いました。1939(昭和14)年以降も、現在はユネスコ世界遺産となっている中国山西省大同の雲岡石窟への撮影旅行を敢行したり、戦火が激しくなる中、1943(昭和18)年と翌年の二度にわたり海軍報道班員として東南アジアへ赴き、インドネシアのボロブドゥール遺跡やカンボジアのアンコール・ワットなどの記録写真も残しています。
3章 小川晴暘から小川光三へ
小川光三(1928-2016)は晴暘の三男として奈良市に生まれました。すぐ上の兄・光暘(1926-95)は同志社大学教授を務めた美術史家です。光三は父と同じく当初は画家を志し、1947(昭和22)年、大阪市立美術館美術研究所で洋画と日本画を学んでいますが、翌年に飛鳥園の経営と撮影を引き継ぎました。そして文化財保護法が施行された1950(昭和25)年から5年間にわたり、文化庁の前身にあたる文化財保護委員会の委嘱で全国各地の仏像を撮影しています。
写真家としての代表作に、毎日新聞社から10年をかけて刊行した『魅惑の仏像』全28巻(1986-96)があり、これは一巻丸ごとを一体の仏像にあて、視点や光の変化で仏像の多彩な表情を切り取るという意欲作でした。父が明暗の諧調のみで表現するモノクロームで撮影していたのに対し、カラー写真ならではの色と光による表現に特色があります。とくに堂内での撮影では鏡を使って自然光を操りながら撮影することを得意としました。
4章 飛鳥園一〇〇年の旅 志を継いで
飛鳥園はその長い歩みの中で小川晴暘・光三親子以外にも何人かの文化財写真家を輩出しています。晴暘に師事した写真家には、奈良の出身で後に長く東京国立博物館に勤務し、同館写真室長も務めた米田太三郎などがいます。写真家ではありませんが、平林たい子文学賞や読売文学賞を受賞した小説家の島村利正は、昭和初期に数年間飛鳥園で働いたことがあり、後に晴暘の生涯を小説化した『奈良飛鳥園』(1980)を上梓しています。小川光三は1968(昭和43)年に飛鳥園を株式会社化しましたが、同年入社して光三に師事したのが金井杜道(かない もりお)でした。金井は1972(昭和47)年に京都国立博物館へ移り、同館を定年退官後もフリーランスの写真家として活躍しています。飛鳥園の経営は現在、晴暘の孫で光三の甥である小川光太郎が担っており、所属写真家として撮影を担当しているのが、若松保広(1956-)です。鹿児島県出身の若松は、1978(昭和53)年に九州産業大学芸術学部写真学科を卒業して飛鳥園に入社、光三に師事し、現在も飛鳥園で活躍しています。
作家・出演者 | 小川晴暘, 小川光三 |
会場 | 半蔵門ミュージアム |
住所 | 102-0082 東京都千代田区一番町25 |
アクセス | 半蔵門駅(東京メトロ半蔵門線)4番出口 左すぐ 麹町駅(東京メトロ有楽町線)3番出口 徒歩5分 市ヶ谷駅(都営新宿線, 東京メトロ有楽町線, JR中央本線, 総武本線)A3口 徒歩13分 四ツ谷駅(JR中央本線)麹町口 徒歩15分 |
会期 | 2024/09/11(水) - 11/24(日) |
時間 | 10:00-17:30 ※入館は17:00まで |
休み | 月曜日、火曜日 |
観覧料 | 無料 |
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